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海外からの便り | 法学部

ボストン便り

森准教授は、ハーヴァード大学ライシャワー研究所の客員研究員として米国に滞在中しておりました。
当時、法学部ホームページ委員は、森先生に在外研究に支障のない範囲で、滞在記・印象記の執筆を依頼しました。その原稿、ここに掲載します。

森 茂樹(法学部教員)

ボストンはアメリカ合衆国北東部にあるマサチューセッツ(Massachusetts)州の州都であり、中心部のボストン市に郊外の諸地域を含め、ボストン大都市圏(Greater Boston)と呼ばれる人口300万人ほどの都市を形成している。

1630年、英国からの入植者たちによって建設されたこの町は、米国最古の都市の一つであり、独立運動の舞台となったことでも知られている。市内には往年を偲ばせる建築や史跡が多く残り、独立戦争の火蓋が切られたレキシントン(Lexington)・コンコード(Concord)は車で1時間ほどの距離である。

成田・関空からの直行便がないこともあって、日本人の間ではニューヨークやサンフランシスコほど親しまれてはいないように見えるが、実は日本には馴染みが深く、米国で最初に日本人会が結成された町でもある。ボストン美術館は、20世紀初頭に岡倉天心が東洋美術部門の責任者を務めたところで、その日本美術コレクションは日本国外では最大級と評価されている。最近では小沢征爾がボストン交響楽団の常任指揮者を務めたことも周知だろう。実際、町を歩くとよく日本語を耳にするし、日本食レストランも多い。同じ古都である日本の京都とは姉妹都市の関係にある。

港町であるボストンは漁業の町であり、クラムチャウダーをはじめとした海産物料理が名物となっているが、反面、「東のシリコンバレー」と呼ばれるハイテク産業の町でもある。ハーヴァード大・MIT・ボストン大をはじめとして、大学や研究機関が集中していることでも知られ、町のそこかしこを大学生や大学院生が歩いていて、市民の平均年齢は20代といわれる。こうした二面性は、ボストンの多彩な魅力を形作る反面、この町を、階級や階層差のはっきりした場所にもしている。
町を歩き回れば、地域や職種によって人々の服装や人種、さらには言葉遣いまで明確に異なっていることに容易に気付くだろう。また、ボストンは米国の都市の中では例外的に治安が良いとされるが、南部を中心に犯罪多発地域も抱えている。そのため、人口あたりの犯罪発生件数を算出すると、全米でも中位の、ロサンゼルスなどと同程度の都市になってしまうのである。

私がこの町の玄関口であるLogan International Airport に降り立ったのは、3月20日の夕方のことだった。入国したシカゴは猛烈に暑かったが、ここは打って変わって冷え込みが厳しく、今にも泣き出しそうな曇り空である。空港のビルを出てタクシー乗り場に行き、隣町のケンブリッジにある宿の場所を告げて乗り込んだ。

階層差がはっきりしているこの町では、タクシーの運転手は大半がアフリカ系である。彼等の英語は早口で聞き取りにくいのだが、私の乗った車の運転手は海兵隊にいたとかで高い教育を受けているらしく、口調はフランクだが明確な話し方をしてくれた。大学町であるケンブリッジに行くということはあんたも科学者なのか、と聞くので、日米関係の研究のために1年間ハーヴァードに滞在するのだ、と答えると、「おお、日本人か。いや、日本は偉大な国だ」とえらい持ち上げようである。それだけならよいのだが、歴史の話を持ち出してきて、「日本は中国を支配し、アジアに大帝国を建設した。小さな国なのに、アメリカととことんまで戦った。大したものだ」とほとんど褒め殺しになってきた。私が困って、「確かに軍事的には占領したけど、ちゃんとした秩序も築けなかったし、民衆に受け入れられることもなかったから、あまり偉大とはいえないな」と反論すると、「私は歴史的な話をしているんだよ。日本が最後までアメリカと戦ったのは大変に重要なことなんだ」という。「でも、そのおかげで原爆まで落とされたじゃないか」と答えると、「そこが重要なんだよ」という。「いいかい、my friend, もし日本があそこまでがんばらなかったら、アメリカは日本に原爆を落とさなかっただろう。そうすれば、原爆がどれほど惨いものか、世界が知ることもなかった。そして、戦後アメリカは、アフリカかアジアのどこかで原爆を使い、その残酷さが知られることはないままだっただろう」

これには私は唸った。「なるほど、歴史的というのはそういう意味か。確かに君のいう通りだ」。彼は満足げに笑い、話はアメリカの現状に移った。彼によれば、アメリカは上層10パーセントのエリートたちに支配されており、彼等は結局共和党も民主党もなく裏でつながっているのだ、という。彼のような立場からは、そのように見えるのも無理がないという気がした。アメリカには、こういう、外からは見えない人々がたくさんいるのである。

30分足らずの道のりだったが、面白い話を聞かせてもらったのでチップを少しはずみ、ハーヴァード・ヤード近くの宿の前で車を降りた。こぢんまりとした感じの良いところで、どうやら長旅の疲れを癒すことができそうである。こうして、1年間のボストン滞在が始まった。